真善美 を強く求める
多くの善良な福山市民のために活動しませんか
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9/6は229日目としての広報活動を行ないました。さて、本日は「社会的
地位・責任ある福山市民の「自分は中立だ」旨の発言・態度が福山の政治を荒廃・
堕落させてはいないか?」について述べます。小生は福山の政治・行政に関心
を持ち始めた約2年前から、本件政治・行政について多くの市民と意見交換を
して来ました。その中で、とりわけ、社会的地位・責任があり著名である市民
程、福山政治・行政の改革・改善問題に話が発展すると、「自分は政治的中立で
ある」との言い分・言い方で、それ以上の立ち入った話を拒絶し語らない(逃
げの一手)御仁が余りにも多いことを痛感して参りました。そもそも我が福山
の政治が、①「まとも・正常・常識的」であり、②福山が「誰からも信頼され・
相手にされる市」であり、③それ故、誇れる市であれば、小生としても殊更、「中
立」の問題を提起する必要はありませんが、現実は丸っきり逆で、我が市は、
気違い染みた・異常な・誰からも相手にされない・不名誉な市へと成り下がっ
た(本来の福山の素晴らしさが過去、20~30年に亘る為政者により踏みに
じられた)ため、本日はこの問題を初めてここに提起しております。そこでま
ず、「何故、社会的地位・責任ある福山市民が「自分は中立だ」」として、重要な
福山政治から逃げ出すのか」を考えてみたいと思います。考えられるその理由
は、(1)特定団体(過去の遺物にしか過ぎない)・行政が怖いから、(2)特定
団体・行政を敵に回すと客層が狭くなるから、(3)生起するかも知れない「い
ざこざ」の処理・対応が面倒だから、(4)考えること自体が億劫・面倒だから、
(5)命に直接関わらず、また、生活・業務に決定的に悪影響を及ぼさない(恵
まれている)から等だと思います。次に、では、どうしたら・どう考えたら良
いのでしょうか?本来、上記「社会的地位・責任ある福山市民」は、他の誰か
らも言われ・要求される以前に、自分の頭で自分は何をなすべきかを、「ノーブ
レス・オブリージュ(高貴な人の義務)」として考え実行すべきと言われてきま
したので、自主的・率先的に改革・改善に取り組むべきと考えます。一方で、
近江商人の「三方よし」の有名な言葉を思い出すべきと思われます。ここで言
う三方とは、「売り手よし、買い手よし、そして世間よし」として、商売は金儲
けだけでは無く、そこに社会性というものがなければいけないということが既
に江戸時代から言われています。この「三方よし」を上記高貴な人の福山行政
に係わる態度に当てはめれば、「本人よし、市民よし、福山よし」となるのでは
ないでしょうか。以上、社会的地位・責任ある福山市民の「自分は中立だ」旨
の発言、態度を排した、「ノーブレス・オブリージュ(高貴な人の義務)」及び
「三方よし」を願って止まない次第であります。 以上です。
地位・責任ある福山市民の「自分は中立だ」旨の発言・態度が福山の政治を荒廃・
堕落させてはいないか?」について述べます。小生は福山の政治・行政に関心
を持ち始めた約2年前から、本件政治・行政について多くの市民と意見交換を
して来ました。その中で、とりわけ、社会的地位・責任があり著名である市民
程、福山政治・行政の改革・改善問題に話が発展すると、「自分は政治的中立で
ある」との言い分・言い方で、それ以上の立ち入った話を拒絶し語らない(逃
げの一手)御仁が余りにも多いことを痛感して参りました。そもそも我が福山
の政治が、①「まとも・正常・常識的」であり、②福山が「誰からも信頼され・
相手にされる市」であり、③それ故、誇れる市であれば、小生としても殊更、「中
立」の問題を提起する必要はありませんが、現実は丸っきり逆で、我が市は、
気違い染みた・異常な・誰からも相手にされない・不名誉な市へと成り下がっ
た(本来の福山の素晴らしさが過去、20~30年に亘る為政者により踏みに
じられた)ため、本日はこの問題を初めてここに提起しております。そこでま
ず、「何故、社会的地位・責任ある福山市民が「自分は中立だ」」として、重要な
福山政治から逃げ出すのか」を考えてみたいと思います。考えられるその理由
は、(1)特定団体(過去の遺物にしか過ぎない)・行政が怖いから、(2)特定
団体・行政を敵に回すと客層が狭くなるから、(3)生起するかも知れない「い
ざこざ」の処理・対応が面倒だから、(4)考えること自体が億劫・面倒だから、
(5)命に直接関わらず、また、生活・業務に決定的に悪影響を及ぼさない(恵
まれている)から等だと思います。次に、では、どうしたら・どう考えたら良
いのでしょうか?本来、上記「社会的地位・責任ある福山市民」は、他の誰か
らも言われ・要求される以前に、自分の頭で自分は何をなすべきかを、「ノーブ
レス・オブリージュ(高貴な人の義務)」として考え実行すべきと言われてきま
したので、自主的・率先的に改革・改善に取り組むべきと考えます。一方で、
近江商人の「三方よし」の有名な言葉を思い出すべきと思われます。ここで言
う三方とは、「売り手よし、買い手よし、そして世間よし」として、商売は金儲
けだけでは無く、そこに社会性というものがなければいけないということが既
に江戸時代から言われています。この「三方よし」を上記高貴な人の福山行政
に係わる態度に当てはめれば、「本人よし、市民よし、福山よし」となるのでは
ないでしょうか。以上、社会的地位・責任ある福山市民の「自分は中立だ」旨
の発言、態度を排した、「ノーブレス・オブリージュ(高貴な人の義務)」及び
「三方よし」を願って止まない次第であります。 以上です。
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